「生殺の柄」セイサイノエ
先日、説法を拝聴しました。
そのなかで、「生」をテーマにお話をされているなかで、
「生きていることを感じるのは、たとえば、釣り。
魚がかかったとき、あのビビビビィと、糸から竿、
そして自分の手へと躍動するあの感覚が“生”なんですよ。」と、
何気に聞いていたところ、ふと、過去に読んだことがある。
この魚の話。
その後、その本をぱらぱらと読み返すと、こうありました。
「水辺で魚釣りをするのは、のんきな楽しみごとではあるが、
それでもなお、魚を生かし殺す権力を持っている。」
~生かしも殺しもできる権力=生殺の柄
(柄は斧の柄)
このふたつの話はつながっていて、前者は魚踊るごとく生の躍動を感じます。
後者は、戦争と同じ。
権力者が、下々の命をも握っている。
そういうイメージがします。
昔の人が優れていたのは、寿命が短いことや、
今のように情報が充満していなかったからですかね?
道端の雑草も花をさかせますよね。
たとえば、人間みたいに、今日は暑いし花は閉じたままで、
光合成するも邪魔くさいから、葉もダランとしといたろう。
なんてことはなく、毎日毎日、目いっぱい開いて、葉もピンピンに広げています。
そういう自分も、今日はなんの進展もなく、なんとなく終わったなぁ・・と思う日があります。
生殺の柄とまではいかなくても、「ヤルヤラナイの柄」の柄は、自分で握ってますよね。
😓柄ッ~!